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2006-02

2月後半の大我 - 2006.02.25 Sat

 2月21日から日野皓正さんが西山満さんの「NEW DIRECTIONS」(鈴木央紹さん、木畑晴哉さん、竹田達彦さん)で来阪。大我は22日のHWASANと24日のB-ROXYに顔出し。日野さんの音はパワーに溢れいつ聴いても圧倒される。B-ROXYでは、GSB(西山さんの孫バンド)のメンバーと遊ぶのに一生懸命だったが、日野さんに「大我~お前が叩け!」っと呼ばれて参加した。GSBのメンバーも参加して大セッション。手取り足取りといった教え方を日野さんはされないが、いつも不思議な力で若いミュージシャンの力を自然に引き出される。日野さんの演奏を聴く事自体がすごい勉強だけど。

 23日はラグタイム大阪でライブ。この日はもともと市川修さんのライブ。ドラムはラリー・ランサムさんだったが、大我はトラ。そして、市川さんが勝手に天国へ行っちゃったもんだから、そのトラが高橋レナさん。オリジナルメンバーのベース木村知之さんとトリオとなった。
 トランペッターのMITCHさんやBlack Bottom Brass BandのKooさん(tp)、トロンボーンのトミーさんなどが遊びにきてくださり、あっと言う間にラグタイムがニューオリンズ化。楽しかった。
 ピアニストの大御所、大塚善章さんも遊びに行くよって行ってくださってたが、何やら「のっぴきならない用ができて行けない。ゴメンナサイ」との連絡。
「ノッピキナラナイ」ってどーゆー意味?と聞く大我に答えられない大人たちなのでした。(笑)ところでどういう意味?
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2月半ばの大我 - 2006.02.20 Mon

 2月10日、大我は初めてのグレートブルーでのライブだった。アルトの三木俊彦さん、ベースは福呂さん、そしてピアノはマスターの安藤義則さんだった。今日も大我と三木さんがあおりあってパワー全開なライブだった。最後、三木氏はソプラノ、アルト、テナーの三本を同時吹き!二本同時はよく楽しませてもらうが、こりゃすごー!(後で聞くと、かなり頭がクラクラしたらしい。)
 その日は三木俊彦さんのおうちに泊めてもらった。お泊りが大好きな大我はゴキゲン。「ヨーコねえちゃん一緒に寝てや…」と三木夫人にすりすり。
 そのまま11日はJK高槻へ。本当は三木さんと西川サトシさんのDUOライブだったが、一緒にやろうということに。JKカフェもライブは初めてだ。しかも西川さんとは本当に久しぶり。秋に市川修さんやMITCHさんとストリートを一緒にやったとき以来だ。「大我、すごいなー!びっくりしたわー!」と西川さん、ますますパワーが出てきて聴き応えあるドラミングになって来たよとすごく誉めてくださった。

 2月19日、SUBへ。
 今日は本来2ヶ月に1度の市川バンドのライブの日。芳枝さん、ギターの其作元総さん、ベースの木村知之さんというメンバーだ。大我も今日は参加した。
 いつもながら芳枝さんの歌は胸の奥にズシンとストレートに届いて心を打たれる。こういう歌を歌える人、他にはいない。
 最後はGGこと西山満さんも参加。修さんに聴こえたかな?

2月第1週の大我 - 2006.02.15 Wed

 2月3日金曜日の修さんの音楽葬の後、大我は夜のライブに備えてお昼寝をした。眠れるかな…と心配したが、彼なりに気が張っていたのだろう、布団にもぐるとコテッとすぐに眠ってしまった。
 夕方からアルトの三木俊彦さんも一緒に出かけたのは、大阪淀屋橋のオフィス街、とあるオフィスビルの地下。階段を下りると吹き抜けの小広場になっておりそこはまるでヨーロッパ。その奥がイングリッシュパブ「ロイヤルハット」。こぢんまりとした店内の隅っこでのライブだが、店が狭い分そのぎゅうぎゅう感がライブを盛り上げた。大我は何だか鬼気迫る迫力だった。途中で何本もスティックを飛ばしたが、動じることなく予備をひっつかんで、全く堂々たる演奏だった。修さんが頭上で「タイガ~ッ!もっといけ~っ!」と叫んでたのかもしれないな。ピアノの生田幸子さんも、お久しぶりの共演で「成長が目覚しい~!スゴイ!」とホメて下さった。
 翌4日は、初めての大津「旅亭紅葉」。120人ものお客様。子供さん連れも多い。この日も大我は、体全体、ハートも全部使っての熱演だった。体が椅子から宙に浮くほど飛び上がってタイコをたたき、「大我、オマエ首が取れるかと思ったよ~」と三木さん。会場は大歓声で大盛り上がりだった。
 そして5日は、ふら~っとホーム。ピアノは辻佳孝さん。修さんのトラということで、リハから緊張気味だ。常々から自分にはない何かを修さんのピアノに感じ、そういった部分を自分の課題として取り組んできた辻さん。いつになく緊張感切迫感のある演奏だった。修さんに捧ぐ「Alone Together」は長いソロをとってすばらしい演奏だったが、「まだまだ、足りないです…」と演奏後にポツリと一言。でも明らかに生前の修さんから何かを受取っている辻さんだと思った。

修パパはお引越し! - 2006.02.10 Fri

 どうも受け入れられないというか、実感できない。あんなに心も身体もでっかかった人。強烈な存在感を放って生き生きと燃え盛っていた人が忽然と消えてしまった。どうしても納得できそうにないので、やはり引っ越されたということにしておこうと決めた。モンク、マイルス、アート、エルビン、ローランド… 修さんが大好きだった人々が住む街へと引っ越していかれたんだと…。
 修さんは何に対してもいつも100%以上だった。とくにJAZZのことでは。
アート・ブレイキーの法要を石切の寺院でされたり、エルビンのライブでは、彼のバスドラに頭を突っ込んで聴いていたという話があったり…たくさんの逸話がある。
 よく先人の話で盛り上がり、次から次からテープやレコードを引っ張り出しては尽きる事ないJAZZ談義を真剣な眼差しで繰り広げられていた。特に、印象深いのはローランド・カークの話をされていたときのこと。やまちゃんと大我パパに、ローランドがいかに過酷な運命を生きたか、いかに不当な評価を受けていたかを話しながら涙ぐみはじめ、遂にはおっちゃん3人共で泣いていた。しかもステージの合間にだ。おかしな光景だったが、修さんは本気でローランドのために泣いていたのだ。
 おかげでローランド・カークを聴くようになったのだが、彼の代表曲の一つに「Black and Crazy Blues」という美しいブルースがある。ローランドは生前この曲を自分の葬式で流して欲しいと言っていたそうだ。CDのライナーノーツに彼の言葉が引用されていた。
 When I die, I want them to play this song. I want to be cremated and put in a bag of pot. I want beautiful people to smoke me. And I hope they get something out of it.
 (死んだらこの曲を流して欲しい。そして火葬にして壺につめて欲しい。私は美しい人々の手で灰になりたい。そうすることでその人達が何かを得てくれればいい。)
 私事だが、自分が死んだら家族以外の人間には自分の骨を拾ってもらいたくないと常々思ってきた。裸以上に無防備であからさまな姿は他人には見せたくないと。だから、この言葉にあるローランド・カークの心理がよく理解できないでいた。奇しくも今、修さんの実体はお骨になって小さな壺の中に収まってしまったが、修さんのお骨を拾われたあるミュージシャンの手記を偶然に読んで、このローランド・カークの言葉の意味が一瞬で解けた。
 彼は修さんと共演で知り合ってまだ日が浅いのに、なぜか葬儀の後、火葬場へ行ってしまったのだという。自分でもなぜそこまでするのか解らないまま修さんの真っ白な骨を拾ったのだという。そのときの彼は深く深く生きる意味を考えた。同じミュージシャンとして、また一人の人間として。多くの人の中で生きる人間であることを。
 彼が修さんの骨を拾ったことで得たことは彼にしかわからない。だけど、思うに修さんのJAZZ魂が彼に何かを叫んで伝えたのだと思う。そして彼はそれを受取ったんだと思う。
 生きていた証しを多くの人に拾ってもらうのもいい…。本心でそう思えてきた。

 修さん、そっちのピアノは弦切れないだろうから、思いっきり熱いセッションで楽しんでください。ローランドと修さんの共演、聴きたいなあ。
「お前もくるくる廻るのか、Brother?」モンクにそんなこと言われて、くるくる一緒に廻るの修さんも目に浮かぶ・・・満面の笑みの修さん。Oh,Yeah!

修パパの「お別れ会」 - 2006.02.06 Mon

2月3日は修さんの「お別れ会」。
「前夜式」もそうだったが、本当に大勢の参列で、修さんがいかにみんなから愛されていた存在だったかを再認識する、深く深く心に残るそんな「お別れ会」だった。
音楽葬では、修さんを偲んで駆けつけたものすごい数のミュージシャンたちが代わるがわるに演奏。プロもアマもベテランも弟子も…みんな思いを一つにしての修さんへの演奏だった。
大我も修パパといつも演奏した曲で加わった。
倒れられた12日には大泣きしてしまった大我だが、今日は泣かなかった。前々日に交わした芳枝さんとの「泣かない」約束もあったし、子供心に覚悟を決めていたようだ。意識不明が続いた最初の一週間は「修パパが早く目を覚ましますように。」と毎日お祈りしていたが、21日以降は何か察したのか、なぜか言葉が変わっていた。「修パパ、早く生きかえりますように。」

出棺。
MITCHさんが率いるBlack Bottoms Brass Bandの面々と仲間たちがニューオリンズジャズの演奏で先導する中、修さんの重い棺は多くの仲間の手から手へと伝え渡り、ゆっくりと1階へと続く階段を進んで行った。
OsamuFarewell1

Farewell1.jpg


1階ではさらに多くの仲間が楽器を持って迎える。「I'll Fly Away」の底抜けに陽気なメロディが高らかに響き、タップダンサーたちもステップを踏む。ハイハットのリズム。いつしかサウンドは熱気を帯び、大演奏、大合唱、そして手拍子の渦となって、棺は大きく上下に揺られ、まるでリズムをとっているかようだった。今にも修さんが飛び出て来て踊り出しそうなJAZZの嵐が会場に渦巻いた。涙と笑顔いっぱい、ハートのある最高のグルーヴだった。
修さんのジャズ魂、ちゃんと生きてることを確信した、生涯忘れられない光景となった。
生涯忘れ得ぬ真のジャズミュージシャン、市川修さん、
ありがとう。

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